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私と評論 受け答え
太宰治全集を読み続けている。何が太宰文学を永遠にしたのだろうかと、考えてみた。戦後日本に絶望したことだけではないのかもしれない。科学批判もおもしろい。作者の分身がいることもおもしろい。なかでも今日取り上げたいのは、話の展開と会話だ。どこかで、ある評論家が、太宰がしっかりした骨組みの構成をとることができなかったと指摘していたような気がするが、感性に優れた作家は、やはり話のオチだけではなく、軽妙な会話...
2023年11月20日
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私と評論 構造と実存
昔、国際政治の本を読んでいるときに、「構造」という用語を学んだことがある。かなり粗い説明になるが、その本によれば、確か、その定義は「諸要素とその関係」というものであった。たとえば、ある出来事や事件が起こった際に、いくつかの要素というか、原因の候補を挙げてみる。基本的には、その原因がどのくらいまで結果に対して影響を持っていたのかについて、詳しく検討していくことになる。ここで注意すべきは、原因は必ずし...
2023年10月12日
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私と評論 捨てる
私事になるが、明日部屋を整理して、多数の本を捨てようと思う。昨年度捨てたときには、付箋を付けたところを見返すという作業を行ったように記憶している。今回は、今の私に不必要になった理由が頭に漠然と浮かんだので、処分を決定した。「政治」関連の書籍に関しては、最後まで、マックス・ウェーバーやホッブズが気になっていた。ウェーバーは精神を病んでいたようだし、歴史研究をしているので、やはり残しておきたい笑しかし...
2023年8月16日
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私と評論 生活と芸術
太宰は、小説を書いて生きていくと決めていたようだ。だから、「斜陽」がベストセラーになったあたりまでは、かなり生活が苦しかったというような話を聞いた。「走れメロス」みたいな物語を書いていながら、友人をだまして、お金を借りたまま返さないといった逸話も聞いたことがある。ちなみに、小林秀雄も、父が亡くなって、生活してゆく必要から、文章を雑誌に載せたというような話だった。いずれにしても、読んでくれるだけの読...
2023年8月15日
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私と評論 自意識と自然
太宰治は、記憶の限りでは、「津軽」などの作品で、故郷の自然について描写していた。津軽の自然は、容易に人間を寄せ付けないというようなことを書いていたように思う。詳しい解釈はできないし、する気もないが、彼にとって「自然」と出会うことが、大きな問題になっていたことは理解できる。罪深さを抱えた者がかろうじて生きてゆくためには、自然のなかで包まれるしか方法はなかったのだろう。戦後東京に戻って死を遂げるまで、...
2023年8月15日
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私と評論 知識と経験
太宰治の理想が、戦後理想郷を語っていたそうだ。フランスのモラリストを基調とし、自給自足の生活をするというような類であったような気がする。私は今、趣味で田畑を耕しているが、そのきっかけは、知識の偏りすぎていたことに対する反動もある。中学生や高校生だった頃、借りている畑で、鍬を持って土と向き合っていた。その頃を思い出している。なぜ太宰は自給自足が良いと思ったのだろうか。有名な言葉になっているが、戦後太...
2023年8月9日
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私と評論 わかりやすさと自画像
お前の文章はわかりにくいとは、よく言われてきた。そのとき、それではお前の文章はそんなにいいものなのかと聞けば、その場では気分が晴れた気にはなるだろう。人間とはその場で勝てばそれでよいとするものだと、太宰治が『人間失格』で指摘している。そうではなく、「傑作」を残して死ぬのだ、そのように決めた者の覚悟は、やはり何か違うと感じた。それが、生活面では不能者と言えるかのような人物であっても、だ。ところで、学...
2023年4月15日
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私と評論 対象に入り込む
評論に本格的に取り組む前に、博士論文や投稿論文をボツにされた。その時は、失格者の烙印を押されたような気がしていたが、小林秀雄や太宰治を読むことで、前に進むことができた。客観的に見た時、私の言葉は、「負け犬の遠吠え」のように聞こえるかもしれないが、私は、これで本当によかったと思っている。将来、太宰について本をまとめたいと考えているが、彼は「脳病院」の体験を通じて、主観と客観の問題について深く問うこと...
2022年11月27日
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私と評論 苦悩
太宰論においてほとんど共通認識となっているのは、太宰作品が、自他の認識の相違に焦点を当てているということだ。彼の作品や登場人物に多くの人が感情移入できるのは、「道化」という言葉に象徴されるように、仮面をかぶって日常生活を送っている側面が、誰にでもあるからなのだろう。しかし、太宰治の本当の魅力は、私からすれば、学者や評論家批判にある。『人間失格』と並行して書かれた随筆には、フィクションではなく、作家...
2022年11月26日
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私と評論 前田英樹『批評の魂』
今回は、前田英樹『批評の魂』(新潮社、2018年)を取り上げます。前田が取り上げている批評家は、主に小林秀雄ですが、河上徹太郎も出てきます。そして、同書の軸は、小林が、自然主義文学者の正宗白鳥との論争から、その白鳥の思想に理解を示すに至る過程です。前田は、丹念に小林の著作の核心を説明してくれているため、非常に読んでいて楽しかったです。以前に前田の本を取り上げたのですが、しっかりと小林の著作を読み込...
2022年11月13日
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私と評論 浜崎洋介『反戦後論』
今回は、浜崎洋介『反戦後論』(文藝春秋、2017年)を取り上げます。浜崎は、小林秀雄に関する書籍も出しており、「文芸批評家」として、参考にすべき点が多くありました。今回は、自分の頭を整理するという狙いにくわえて、彼の「評論」の方法についても学んでみたいと思います。今回取り上げる書籍は、彼が長年取り組んできた論考をまとめたものです。そのため、多様な論点が抽出され、考察されているので、正直、現在の私の...
2022年10月30日
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私と評論 「客観性」とは何か
別に大学教授の文句を書きたいわけではない。ただ、自分が研究から評論に向かうにあたって、かつて自分が目指していたものとは何だったのか、また自分には肌が合わなかった理由は何かについて、改めて整理しておくことが必要だと感じた。個人的には、大学教育の魅力は、学位ではないと思う。というのも、私自身が、博士を単位取得満期退学しているのに、正社員として社会に貢献していないからだ。「費用対効果」から見た場合、私に...
2022年10月10日
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私と評論 「科学」批判のきっかけ
今回は、「科学」批判をすることになった、私の経験について書いてみたいと思います。「科学」を信奉されておられる方には、私個人の問題として片付けていただいて、まったく構いません。簡潔にまとめると、それは、すべて学者との出会いでした。博士課程まで進んだので、学者と直接対話する機会を得ることができた点は、ある意味では、貴重な経験だったかもしれません。ただ、結論的に言えば、彼らのような、客観的で、合理的な人...
2022年10月9日
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私と評論 生活経験から学問を立ち起こす
タイトルの言葉は、拙著でも引用していますが、小林秀雄が語ったものです。今回書きたいことは、生活経験を見つめることから学ぶという姿勢が大事なのだということです。それが、研究から評論に進む際に、私が強く感じたことです。前回述べたように、学者は、一般の人よりも、たくさんの本を読んで意見を出している場合が多いです。自分の研究が、もちろん個人的興味・関心から出発しているにしても、社会に役に立つような発明や発...
2022年10月3日
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私と評論 「自己弁護」が目的ではない
別に大家でもないのに、大仰なタイトルをつけたものですが、太宰治の随筆を読んで、私自身が表現方法について見つめる機会を得ることができました。今回の目的は、太宰論を展開することではなく、私自身の経験を踏まえて、彼がどのような思いで随筆を書いたのだろうかと、思いを巡らせることです。まず、私が太宰に興味を抱いたのは、私が彼と同じく、精神病院に強制入院させられたからです。それでは、その経験は、彼にとってどの...
2022年10月2日